日本人って良いですよね・・・。
同胞ですから当然と言えば当然ですが・・・。色々な表現やニュアンスも「阿吽の呼吸」で通じますし・・。同じような体験・・文化の中にいますから心情も理解しやすく・・・日本は良いです・・・。
しかし、一方で先日のAsian Strange Fruitでも書きましたが、日本って世界のスタンダードから見ると案外・・孤児?なのではないか?という危惧もあります。何が原因してこんなに色々問題?が生じているのかなあと残念に感じます。
で、最近、小生が勝手に考えている仮説があります。
日本は過剰適応の風土?文化であると・・・。
これに似た言葉では、開発の話で過剰性と感動・・・を先日、書きましたが、「これでもかの過剰性」「ここまでやるか」の先に生まれるお客様の感動とは、今回はちょっと意味が違います。
ここでの過剰適応は、日本人って何らかの負荷があった時、かなり苦しんで悩んだ末の結論でも、一旦それを受け入れると腹を決めると、真面目さ、真剣さのあまりアイデンティティー・自分らしさや、ある種の頑固さを失ってまで、環境や役割、立場などに過剰に適応してしまうのではないか?と言うことなのです。
適応が上手なのは、もちろん美徳でもあるとは思うのですが・・・やはりバランス感覚が大切だ・・・とも思うのです。
なんとなく、そんな感じがしていたのですが、小生の着眼点などを並べてみますと、どうお感じになるでしょうか?
まず食生活の変化・・・。和洋折衷とは言いますが、日本の食・・・本当にフュージョンしてます。
何でも受け入れています。小生の愚息等、いったい何人だ?と言うように、マックとか・・ラーメンとかを好物に挙げます。お新香と味噌汁が日本の食とは言いませんが、イタリア料理、中華料理などと比べても、アイデンティティー・ロスト(identity lost)・・こう言う英語あるかどうか知りませんが・・・・そう言う感じがします。
我々には外国から来た食べ物に適応するだけでなく、自国のアレンジを加え、例えば「日本のラーメン文化」・・にまでしてしまったり、カトゥレット?を日本の「とんかつ」にしてしまう程の、どうせやるなら徹底する・・・単なる許容や適応・・・を超える「こなしてしまう」凄い能力もあるように思います。
もしかすると今後、純粋な和食は、特別な時に食べるもの・・・になりつつあるのかも知れません。
終戦後はどうだったでしょうか?
日本の敗戦の頃、駐留米軍に、戦時中のキーワードでは「鬼畜」と言う凄い表現が付けられていたはずの米兵に、「ギヴ・ミー・チョコレート・・・」と言った少年たちは、本当に彼らに対する憎悪があったでしょうか。
憎悪があっても「敗戦」を受け入れていたのかもしれません。米兵も意外なほど抵抗もなく統治がしやすいことに驚いていたりして・・・?!現在でも、敵国だったって言う印象・・・ありますでしょうか?
敵意どころか、白くて背が高い人・・・これがかっこ良い?という感覚で「見上げる目線で見て」いなかったでしょうか?敵国だった国に「正義」を感じ、憧れを抱いていませんでしたでしょうか?
何も悪印象を持ち続けろという趣旨の事ではなく、こう言う日本人のやや特異?な性質を考えています。やることが決まり「腹がくくれる」と突進すると言いますか、目標に向かって真剣で、忠実で、己を捨ててでもやるような適応の徹底振りを感じます。
戦後で言えば、何しろ生き残る。何が何でも復興するという決心で、反米云々より「頑張ること」に無心だったのかも知れないな・・・とそんな風に思います。
良い意味で『日本の集中力』って凄いとも思うのです。
目標に純粋な民族と言う「言い換え」もできるかもしれません。
戦後のイラクの状況などを見ると、当時の日本の統治はしやすかったのでは?と感じたりします。
IVYルックなどとアメリカン・トラディショナルの(IVYリーグの大学出身者が好むような)スーツを着たり・・・アメリカのキャンパス・ライフが最高の憧れだったり・・・。
アメリカの格好よさの模倣をしたりは枚挙に暇なしで・・・。
江戸時代、明治時代にこう言う憧憬がありましたでしょうか?欧米列強のアジアに対する植民地支配を免れるため、急速に国力を発展させ、日本を守ってきた・・・。この頃は、相当日本が輝いていたのでは?と思います。
翻って今日、今の若者たちは、原爆を落とした米国が、今のアメリカと同じ国だ・・・変な言い方ですが、あえて言いますと・・・そう言う感覚があるのでしょうか?
かく言う小生もそうなんです。戦後の生まれだから普通かもしれませんが、日常の生活では、アメリカが敵国だった意識や感覚はほとんどないのです。歴史の知識として言われれば当然「かつては・・・」と答えますが、どちらかと言うと、憧れのアメリカだったと思います。米国の製品は、あこがれの「舶来」の代表でもありましたから・・・。
環境の変化や敗戦を受け入れ、何しろ生きていくことを選択したとも思いますし。それは正しかったと思うのですが、改めて考えますと、引き換えに何かを失ってしまった。そして、過剰適応の能力を発揮し始めたような気もするのです。
日本が復興し立ち直る時、形振りなど構っていられなかった。何しろ懸命に生きてきたのだ・・・。
真面目さと我々の素直さでしょうか。不可能を可能にし、経済は目を見張る発展を遂げたと思います・・。それこそ、復興と言う最高の「プロジェクトX」を成し遂げる過程で、日本は自分を少しだけ捨てたのかも知れません。
民族衣装・・・。これも今更・・ですね・・・。
サラリーマンの社会はどうでしょうか?どなたかの分析を読んだり、団塊の世代の先輩と話したりしたのですが、学生運動をやっていた彼らは、その後、過剰に社会に適応した・・・と言う話がありました。
つまり学生時代は共産主義に傾倒し、反体制を謳い、ゲバ棒を振った。デモでは機動隊に殴られ敗北感があった・・・。しかし、就職の時が来た。髪を切り、スーツを着て面接試験を受けた。学生時代の反動からか、反体制どころか社会に適応するとなると徹底して保守的に生きた。会社人間になり、組織に少々媚びた。
協調性を尊び、浮かない、出過ぎない、主張しない・・・そんな感じで生きた・・・・。と。
小生などが団塊世代の方を保身的だ・・・等となじると、良く「俺達のことを分からん奴が・・」と叱られました。でも、これも、生きていく知恵として、分かりますが、過剰適応?ではないでしょうか?
もっともこのような勝手な例示で、過剰適応=日本などと決めつけて言うつもりもありません。ただ、そう言う勝手な分析を考えますと小生は個人的に「腹に落ちる」気がしています。自分なりに納得できる気がしております。
分析的に正しいかどうかは恐縮ながら置かせて頂いて、これからどうするべきなのかな?が、かなり気になっております。
少々「日本らしさ」を主張したいなと思います。
Identityを主張できる日本。
理不尽には怒れる日本。
世界で通用する普通の国、日本。
日本らしい日本。
頑張り屋で、思い込みが激しく、口下手で、しかし素直で、人が良くて、水に流すけど自分のしたことも忘れっぽい日本。
今、アジアで問題にされているこのあたりの話も、実は日本の日本人の一生懸命な過剰適応の性質との引き換えの、「問題点」の表出のようにも思えてまいります・・・。
浅薄な話で恐縮でございました・・・。